ボルシチはロシア料理ではなく、ウクライナ料理なんだ
東ヨーロッパを代表する真紅のスープ「ボルシチ」。その美しい色彩と深い味わいは多くの人々を魅了していますが、一般的にはロシア料理のイメージが強く語られることが多いのも事実です。しかし、実際のところボルシチの起源や伝統は、何世紀にもわたるウクライナの歴史と文化に深く根ざしており、正真正銘ウクライナ料理であるという根拠があります。ここでは、ボルシチがどのようにウクライナの伝統食となったのか、歴史的背景や文献資料、さらには国際機関UNESCOによる認定の意義について詳しく解説します。
ボルシチの起源と歴史的背景
ウクライナは肥沃な黒土に恵まれ、古来より豊かな農作物が育まれてきた土地です。その中で、手軽に栽培できるビーツは特に重要な作物であり、16世紀ごろからビーツを中心としたスープが庶民の間で親しまれるようになりました。実際、ウクライナのボルシチに関する最初の文書上の記録は、1584年のキエフにさかのぼります。
ウクライナ語文献に見る記録
ウクライナの文献からは、当時の記録が色濃く伝わっています。例えば、ドイツの商業代理人マルティン・グルネヴェーグは、自身の日記に1584年10月17日の記録として、キエフに向かう商隊が一泊のためにボルシチウカ川のほとりに立ち寄ったと記しています。この川は、現在の「ボルシャヒウカ川」と呼ばれ、キエフ西部の郊外地域の名称の由来となっています。キエフの住民は、この地域にかつて「ボルシチ市場」が存在していたことから、訪問客に川の名前の起源を説明していました。
しかしながら、グルネヴェーグは日記の中で、市場の存在に疑問を呈していました。彼は「キエフの人々があえて中心地から遠くに出かけ、自らボルシチ(またはその材料)を求める必要があるはずがない」と指摘し、ウクライナの人々が日常的に自宅で自らボルシチを調理していることを強調しました。彼は、「ルーシ人はボルシチをめったに、あるいは一度も買わない。というのも、彼らは皆、自分の家で日常の食事として自ら調理しているのだ」と述べています。
さらに、1598年には正教会の論争家イワン・ヴィシェンスキーが、農民たちが一椀からボルシチあるいは薄めのスープ(ポリウク)を勢いよくすすぐ様子を記述。また、17世紀初頭には、ある男が「三椀分のボルシチ」を平らげたという記録や、1619年の記録では「昼食の定番セットにピロギと共にボルシチが煮込まれていた」との記録が残されています。いずれの史料においても、料理名は愛称的な形「ボルシチク(ボルシチちゃん)」として言及され、この表現は今日までウクライナの一部地域で伝承されています。
また、17世紀前半からは「ボルシチ」に由来する姓が登場し始め、ボルショフスキー、ボルщ、ボルシェンコといった名字が民間に定着したことも、この料理がウクライナ社会に深く根付いている証拠です。さらに、1907年発行のボリス・グリンチェンコの『ウクライナ語辞典』には、料理名に派生した十数種類以上の単語が収録されており、ボルシチが長い年月を経てもウクライナの人々に愛され続けてきたことが確認されます。こうして、ボルシチの歴史は途切れることなく、豊かな文化遺産として今日まで伝えられているのです。
ウクライナ文化とボルシチの関係
ウクライナにおいて、ボルシチは単なる栄養補給のための料理ではなく、家族や地域社会を結ぶ大切なシンボルです。祝い事や祭典、日常の食卓において、ボルシチは温かさと共に伝統的な生活様式を映し出しています。地域ごとに異なるレシピが存在するのも、ウクライナの多様な風土と歴史を反映しており、東部では燻製肉や豚肉を用いた濃厚なバージョンが、西部では酸味を引き立てるために酢やザワークラウトが加えられるなど、各地の特色が色濃く表れています。
このように、ボルシチはウクライナのアイデンティティと深く結びついており、単なる料理以上に、ウクライナ人の誇りや伝統精神を象徴する存在といえます。
ロシア料理との混同と真実
ソビエト連邦時代、政治的・経済的な統合の中で、ウクライナとロシアの文化や料理が混同される側面がありました。そのため、ロシア国内でもボルシチは広く普及し、ロシア料理としても認識されるようになりました。しかし、歴史的文献や民間伝承から見えるのは、ボルシチのルーツがウクライナに深く依拠しているという事実です。つまり、どんなに両国の文化が交わったとしても、ボルシチの本来の起源はウクライナにあり、その伝統はウクライナ人自身の生活と密接に関わっているのです。
ソーシャルメディアでの論争
ソーシャルメディア上での論争は、ロシア連邦外務省の公式アカウントが「永遠のクラシック、#ボルシチ – 最も有名で愛されているロシアの料理の一つであり、国民料理の象徴」とツイートしたことから始まりました。西洋の観察者にとっては無害に見えるかもしれませんが、ボルシチを国民料理と考えるウクライナ人にとって、このツイートはクリミア占領や東部ウクライナの紛争を背景にしたプロパガンダの一環と受け取られました。ウクライナのツイッターコミュニティは怒りと皮肉を込めて「クリミアだけでは足りず、ボルシチまで盗もうとしている」と反応しました。
ロシア側は、料理の名前が「ロシアの」ボルシチウニク(ボルシチ草)に由来すると主張し、10世紀の「古代ルーシ」で広く食用にされていたと述べています。しかし、この主張の問題点は、古代ルーシの中心が現在のウクライナの首都キエフであったことです。ウクライナ最大の都市であるキエフは、過去千年にわたり、ロシアの影響に対する抵抗を含む多くの侵略や占領、激しい反乱を経験してきました。
UNESCO登録と国際的認知
ウクライナ人は2019年にユネスコへの正式な申請を行い、約3年間にわたって、さまざまな方面からボルシチの意義と文化的価値を文書で証明するための活動に取り組みました。最も困難だったのは、その官僚的で煩雑な手続き自体でした。なぜなら、ボルシチがウクライナ文化においていかに重要な役割を果たしているかを、700ページを超える証拠としてまとめ提出しなければならなかったからです。結果として、ウクライナ人は膨大な証拠資料をもって、ボルシチがウクライナ発祥であり、ウクライナ文化と深く結びついていることを明確に示すことに成功しました。
2022年7月1日、国際連合教育科学文化機関(UNESCO)は、ウクライナの伝統食文化の保護と継承に向けた取り組みの一環として、ボルシチを含むウクライナ料理を無形文化遺産として緊急登録しました。この登録は、ウクライナが政治的、軍事的な厳しい状況に直面する中で、その伝統文化が危機にさらされているとの判断に基づいています。
UNESCOのこの認定は、ボルシチが単なる料理ではなく、ウクライナの歴史、文化、さらには人々の精神的アイデンティティを体現する重要な遺産であることを国際的に証明するものです。これにより、世界中の人々がウクライナ伝統の食文化に触れ、その背景にある豊かな歴史と文化に敬意を払うよう促されるとともに、ウクライナ文化の復興と保護に向けた国際的な支援が期待されています。
まとめ
ボルシチは、その歴史的記録や伝承から明らかに、ウクライナで生まれ育った料理です。1584年のキエフでの最初の記録から、歴史ある文献や民間の伝承、さらには姓や言葉にまでその影響が及んでいることは、この料理がウクライナの生活と文化にどれほど深く根ざしているかを示しています。ソビエト時代以降、ロシア料理として混同されがちでしたが、現代の学術的な再評価やUNESCOによる無形文化遺産登録により、ボルシチの真のルーツが再び注目されています。
最後は私のウクライナの知り合いのプレゼンを載せます。彼は福岡在住で日本語でボルシチの歴史につして語っていたので、興味がある方はぜひご覧ください。